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Wittgenstein’s Mistress
世界中の人が皆死に絶えても自分だけは生き残ってこの世を散策してやる、ということを考えていた矢先にウィトゲンシュタインの愛人という本の存在を知った。

内容は以下のようなものだ。
地上から人が消え、最後の一人として生き残ったケイト。
彼女はアメリカのとある海辺の家で暮らしながら、終末世界での日常生活のこと、日々考えたとりとめのないこと、家族と暮らした過去のこと、生存者を探しながら放置された自動車を乗り継いで世界中の美術館を旅して訪ねたこと、ギリシアを訪ねて神話世界に思いを巡らせたことなどを、タイプライターで書き続ける。
彼女はほぼずっと孤独だった。そして時々、道に伝言を残していた……
ジョイスやベケットの系譜に連なる革新的作家デイヴィッド・マークソンの代表作にして、読む人の心を動揺させ、唯一無二のきらめきを放つ、息をのむほど知的で美しい〈アメリカ実験小説の最高到達点〉。
出版社HPより引用
とても久しぶりに小説を読んだ。しかも新書。以下(極私的)感想
意識の流れ?
タイプライターで書かれている設定のため後戻りはできない、推敲も頭の中でしかできない。あるいはその推敲やタイプに関することも文章上で述べられる。例えば、ある人名にはØがあって面倒だからファーストネームだけタイプするだとか。いや、ラストネームだったかもしれない。
今の文章のように、あるいは上述のように、ケイトの頭に浮かんだことをかたっぱしから書き連ねた文章、そう言って大きく間違いはないだろう。
私は丁度2年前の今頃、ジョイスのユリシーズ1巻を毎日15ページずつ読み進めていた。内容はほとんど覚えていないのだが度々アイルランドの街並みのことが言及されていた印象がある。そしてこの作品は意識の流れという文学上の手法が大々的に援用されたものらしい。
読んだときの感じが似ていたとはっきり言えるわけではないが、ウィトゲンシュタインの愛人も意識の流れを用いた作品と言えるかもしれない。様々な話がぽんぽん出てきて、話が脱線することや話の正確性について言及することもしばしば。あるいは単純に独白なのかもしれない。
ところで、この本は章立てがなされていない。私は夜、寝る前に読んでいたのだが区切りのいいとこが存在しない。だから気まぐれな風でふっとロウソクの火が消えるように本を閉じるか、眠くなって読み進められなくなるまで読むしかなかった。意識とはそんなものだろうか。
自分も独白?
こう不思議な文章を読むと、さて自分の意識下にはどんなことが流れているだろうか、どんな風に書き下せるだろうかと考えてしまうのが人間の性、あるいは私の性のようだった。
さっそく考えてみるが、なかなか書けそうにない。本当になんでもいいのなら書くことはできるかもしれない。しかしそれは、例えば料理をしているときにお湯を沸かす間に野菜を切るだとかプログラムを書いているときのデータの流れだとかそういったことになってしまう。が、それでいいのかもしれない。
ただ、そこには明確な差異があった。ケイトのは出来事や想念がありつつも多くは彼女の過去を振り返っていた。過去というのは地上から人が消えた後に生存者を探す旅のことや美術に関することが大半を占めている。いわば自らの頭の中、記憶の中を意識が流れていると言えようか。
一方の私が書き下せると考えたことは、記憶力の問題もあろうがごくごく最近のことばかりだった。そこで感じたのは「私が今どのように生きているのか」という問題だ。
頭の中と外
率直に述べてしまえば、そこで感じた問題とは、日々の出来事が自分の頭の中で完結してしまうこと、そして繰り返し的で変化に乏しくなることだ。今の生活はまさにそれに当てはまるもので、知り合いと対面で話す機会は皆無だったり、遠出もしないために常に同じ場所にいたり、ただ本を読んだりネットサーフィンをする時間がほとんどを占めていたりする。
この問題はただの現状への不満の現れでしかないと思われるかもしれない。だから、もう少し問題と感じている点を明確にすると、それは自分の中で完結してしまうがゆえの記憶からの取り出しづらさだ。記憶から取り出せないということは、後でその部分の記憶にアクセスしようとしたときにその間の人生がぽっかり空いてしまっているかのように感じられることになる。
自ら話の腰を折るように反論を述べれば、ぽっかり空いてしまっていると感じることは全くもって無問題かもしれない。これはいささか哲学的問いの様相を呈する気がしたので深入りしないが、再度反論を述べるわけでもないからこそこれは何かへの批判でもない。
ただ自分が何年か後に今を振り返って、そこに出来事があり情緒があり生きたと感じられたらいいなという憧れであり、ただの人生観なのであった。もっと自分をカルチベートしよう、そんな風に勝手に思いましたまる