早稲田松竹で3年ぶりくらいに映画を見た。もしかしたら2年ぶりかもしれないし1年ぶりかもしれない。 その日の天気予報は雷雨で、実際に1本目を見終わったら雷がゴロゴロなっており落ち葉も綺麗に流れるほどのゲリラ豪雨が訪れた。

ダゲール街の人々

原題ではダゲレオタイプと発音されていた。ダゲレオタイプとはシネマトグラフより50年も古い時代に生まれた写真である。これは像を焼き付けるのに長時間を要しその間被写体は静止していなければならない。黒沢清監督のダゲレオタイプの女も早稲田松竹で見ていた。この映画はまさしくダゲール街の人々の肖像である。

この映画はドキュメンタリーとホームビデオの中間に位置する、あるいは群像劇的ホームビデオのような立ち位置にあると感じた。香水ショップや精肉店、パン屋、手品師といったダゲール街の人々を映し出して行く。一つ一つのカットに何か特別な意味があったりモンタージュで新たな意味付けがなされるといったわけではなくともすれば適当に映像を切り貼りしているように思えるが、街の人々を交互に映し出し時には音を被せ、人々が独立に暮らしているのではなく繋がって小さなエコシステムの中で生活していることを感じさせてくれる。私はここにヴァルダの才能を感じた。

落ち穂拾い

グラヌーズ、拾う人。拾うという行為はその人の生き方に強く結びついている。この映画では落ち穂に始まり、出荷されなかった廃棄野菜や市場で捨てられた生鮮食品、粗大ゴミやガラクタのようなおもちゃまで様々なものを拾う人にカメラを向ける。収穫後の畑の積み残しを拾う人もいてこれは私有地に立ち入ることにもなるため法律家の言葉も付される。

ヴァルダも映像の中で語っていたが、生物学を修めた人が節約のために市場に残された食べ物を食し言葉を教える姿に自分も思うところがあった。地位や身分だと今まで自分がやってきたことで自らを規定するのでなく、やりたいことはさっさと始めて何をするかで自分を自分たらしめた方がいいのだろう、と。